ダーウィンの進化論

■ダーウィンの愚

 ダーウィンの進化論も経済や政治の見方と同じく、片目でしか見ていない代表的な例です。
この説は、ハウツーの部分での説明しかしていません。
ダーウィンの進化論は、「突然変異と自然淘汰の結果、適者生存し進化してきた」という事になります。言わんとする流れは分かりますが、その更なる前の原因を知りたいのです。

確率的に言えば、環境の変化で突然変異をするにしても2つの可能性が有ります。
進化と退化、成功と失敗、この2方向があり、2分の1の確率です。
その確率の繰り返しで進化し続けるわけですから、人体のような極度に精緻な仕組みを持った生命体が存在するようになる為には、いったいどれだけの奇跡を繰り返せば良いと言うのでしょうか。
単に偶然の組み合わせで自然に進化する事など不可能です。

もっと単純な事実に注目しても、偶然に進化してきたという事など有り得ない話です。
それは、現代科学を持ってしても単細胞の生命体
その一つ創造することが出来ない事実があるのです。
作り方が分からないのです。創れないのです。そのことを念じ努力しても創れないのです。
そのようなものが、まして、偶然に生まれる事はあり得ません。
その偶然性をどのようにすれば追認できるのでしょう。
しかも、子孫を残す為の仕組みまで必要なのですから。

生き物が空を飛ぶという事を例にとっても、何故、そのように進化して来られたのか?
その過程をいくら想像して見ろと言われても出来ないでしょう。
昆虫や鳥が自由に空を飛んで、当たり前のようですが、どうして飛べるようになったのか。
考えれば「無知の知」を認めるしか有りません。
「突然変異と自然淘汰の結果、適者生存し進化してきた」としても、どのような経過を経て飛べるようになったのか?どんなに考えても私には分からない。
このことを、はたして説明出来る人がいるのだろうか。
現に飛んでいるからそうなったんだというように思考停止せざるを得ません。
どうやって飛べるような体に変化させ、どうやって飛行技術をマスターしたのだろうか?と考えると、人が、現実に飛行機を作り空を自由に飛べるようになった歴史や背景を考えると、意志の働きや努力無しに、偶然に鳥たちが空を飛べるようになったとは思えないのです。
それこそ、地をはう生き物が自然に偶然に空を飛ぶようになるのはラクダが針の穴を通る事より難しい事でしょう。

ダーウィンの進化論に欠けているのは、その意志の部分(左目・陰)を見ていない。
なぜ?進化してきたのかという「なぜ?」に答えていない。
考えようとしていないのです。
具体化のハウツーの問いにしか答えていないのです。
それで、解った気になっている。

■ 片目で見る事で生まれた不幸

また、逆の面から見てみる事も必要でしょう。
ダーウィンの進化論のように右目だけで見ている世界観も有れば、逆に、左目だけで見ているような考え方も有ります。一部の宗教団体の人々は、唯一絶対の神が全てを創られたとして狂信盲信して蛇行している姿があります。
創り主の意志に逆らうわけにはいかないとして杓子定規な判断から教条主義となり愚かな行動をする人たちがいます。共に片目だけで見がちな為に蛇行しているのです。ある面同じレベルの人達であり、そううつ病の如く蛇行している現象です。(同じ構造は、政治経済の中にも有る)

ダーウィンの進化論から導き出される考え方が歴史に不幸をもたらした事を忘れてはなりません。
この進化論を背景にすると白人達の中で、黒人や有色人種などは、白人へと進化している途中の種族であるという考えが出てきて当然かもしれません。
サルと白人の中間種ぐらいに思っていたフシが有ります。

この二つの蛇行した見方から、恐ろしい事が始まります。
キリスト教などを一神教と盲信した人達は、キリストの名によってのみ人々は救われるとか、イエスが言った主なる神を絶対の存在と信じ込み、その他の異説邪宗によっては救われる事は無いというように思い込んだ人達は、大変な事を始めます。
その宗教が海外伝道を始める時に、時の権力と連携していきます。
国家の利権を求める意志と宗教の伝道をしなければならないという意志が重なって、異民族たち、未開の地を植民地化していきました。そして、黒人達を家畜のように扱い奴隷制度を維持してきました。片目だけで見ている世界観が創り出した悲劇です。植民地だった中国では「犬とシナ人、入るべからず」という看板が公園に立てられていたそうです。
そんなに大昔の話ではありません。

私はイエスを救世主と真実、認めていますが、現実のキリスト教がしてきた事は、確かに多くの幸福を人類にもたらせて来ましたが、多くの矛盾を抱えたまま育ってきたようです。
織田信長や徳川家康がキリスト教を禁止した背景には、このような事を見抜いていた事も有ったのかもしれません。
そのように進化論ともからみ、カルト教化した人々によって、蛇行してきた経緯が有りますが、今もダーウィンの思想の弊害は収まっているわけでは有りません。

■ 進化を身近な例から推論する

さらに、進化には、何らかの意志を投影される必要が有ることの証明として、身近にあるものを例にとって推測する事がいくらでも出来ます。
私たちの身の回りの物を見てみると、家の中には一杯色んな物が有ります。
机にしろ椅子にしろ、本にしろテレビ、ラジオ、車、アスファルト舗装、なんであれ、そこには「存在している理由と過程」があります。イメージ(思い)が有って具体化(行い)されています。
なんであれ誰かが、そのものを創ろうと思わなければ出来ません。存在しません。

粘土で造られる器であっても、色んな作家がおり、色んな考え方を背景にして色んな方法で作品を作り焼き上げています。色んな個性が色んな個性有る器を作っています。土でできた器が、偶然に自然に完成する可能性が有ると言い張る人は、誰もいないでしょう。何十億年時間をかけ、薪や土や水が近くに有り天変地異の助けが有ったとしても不可能です。想像すら出来ません。

陶芸の器の例でも分かるように、この宇宙には色んな神々がおられ、それぞれの個性の元に創造されているのではないだろうか。創られた以上、その器には目的(陰)と使命(陽)が有るように、私たち人間にも目的と使命が与えられているはずです。
しかし、それに正しい回答を出すのは難しい。

アインシュタイン が言っていたそうですが
「わたしは神がどういう原理に基づいてこの世を創造したものかが知りたい。
その他は小さな事だ 」と。
しかし、 この、陰陽両眼で見る事を繰り返していると、その回答が次第に見えてきます。