人生とは、何か?

 人は、時々「人生とは何か?」を考えるということがあります。
どんな時に考えるかというと、私自身のことを思い返してみると、
何らかの挫折感、停滞感、不幸観を感じている時が多かったように思います。
そのような時に、人は、なぜ産まれ、
なぜこんな思いまでして生きていかなければならないのか?を考えるようです。
生きていくことに何の意味があるのだろうか?
何のために生きているのだろうか?

そのような疑問を、生まれて一度も持ったことの無いという人はおそらく一人もいないでしょう。
そのため多くの書物や偉人の足跡にふれてその答えを求めようとしますが、
しかし、多くの方は、その探求の旅を途中やめにしてしまいます。
ただ、生きていくことに忙しく忘れてしまうようです。
私自身もそうでした。

しかし、いま、ここに来て初めて明確にその答えを知ることが出来たのです
それは「人生の目的と使命は、魂の向上とユートピアの実現である」という根元的な学びでした
この言葉は、感覚的には素直に受け入れることが出来たのですが、
でも、どういう理屈でそのようになるのだろうという疑問も同時にありました

このことをフラクタルの森で検証してみたのです。

「人生とは何か?」
ようするに「何の為に生きているのか?」という事ですが、
何のために・・・・この言葉は、大きな意味を持っていました。
この「ため」の意味は辞書で見ると次のように書いてあります。

ため【為】
1 利益があること。役立つこと。「―にならない本」「子供の―を思う」
2 原因・理由。わけ。「雨の―に延期する」
3 目的や期待の向かうところ

そう、その「目的」です
その「目的」と似た言葉に「目標」という言葉が有ります。
さらに、この両方を辞書で調べてみると次のように分けられています。

目的・目標 ――
「目的(目標)に向かって着実に進む」のように、めざすものの意では相通じて用いられる。
◇「目的」は、「目標」に比べ抽象的で長期にわたる目あてであり、内容に重点を置いて使う。
「人生の目的を立身出世に置く」
◇「目標」は、目ざす地点・数値・数量などに重点があり、
「目標は前方三〇〇〇メートルの丘の上」「今週の売り上げ目標」のようにより具体的である。

フラクタルの森では、目的と目標を次のように整理し使っています。

悟性(O)の森 ・・・「見る」           前提・・・・なにを(人生)
感性(B)の森 ・・・「思い」・・・・・目的    動機・・・・なぜ (?)

知性(A)の森 ・・・「行い」           方法・・・・どのようにして(?)
理性(AB)の森・・・「結果」・・・・・目標    成果・・・・どうしたい   (?)

「人生とは何か?」を考えるときに、結局は、この目的と目標の中身を埋めようとしているのです
フラクタルの森で考える場合に、まず、結果目標である「理性(AB)の森」から入ります。
一体どうしたいのか?
結果目標、そこから検証して行けば答えが出ます

私たち人間は様々な場面でいろんな事を思い、いろんな行動をとっていますが、
その求めている結果、その目標としている形や状況は様々ですが、
そこに共通することは一言でいうなら「幸福」ということでしょう。
私たちは、何らかの幸福な状況を求めているはずです。

人生上で求めているもの、その得ようとしている目標は有形無形の「幸福」という成果です。
誰であれ不幸を意識して求めることはないのです。
しかし、誰であれ幸福を求めておりながら、みすみす不幸の淵流れに入ってしまうのも人間です
目先だけの幸福、刹那的な幸福、欲望に振り回された幸福を求める場合があります
表面的なモノだけを求めてもその成果が出ないことが有ります
その原因は、その結果を生み出す原因を無視し結果主義となった心が有ります
さらに、実際は幸福とは呼べないようなことも幸福という中に入れてしまうことも有ります
それらについては意識して排除しなければなりません。

自分が描いている幸福と思いこんでいる目標が本物であるかどうか
その幸福が時間的にも空間的にも持続し広がっている状態を考えてみる必要が有ります。
単純に目先の欲望だけを満足させることが「幸福」とは言い難いからです。
自分では、幸福と思って成したことが、地球を一回りするまでもなく、
その成した行為の反動ですぐに不幸のどん底に落とされるようなことが有るからです。

そのように考えると、その自分自身の得た幸福が時間的にも空間的にも維持され、
個人から家庭へ、そして社会へと繰り返し循環し広がった状態こそ理想であります
その状態は、理想郷、桃源郷、ユートピアの状態です

そのように、人間とは、幸福を求めて生きている存在であると規定するなら、
そのための必要十分条件を見ていけばいいのです。
「人生とは何か?」を考えるということは、
そのような幸福なる状況が生まれる原因を造る必要が有ります
しかし、多くの場合、その原因を「行い」だけで求めがちな所が有る
「こうしたから、こうなった」(陽)
どうしても目に見えやすい所しか見ない傾向が有ります
思考停止の状態です

「なぜ?そうしようと思ったのか、どうして?そう思ったのか」(陰)
目に見えにくい所は表現もされにくく無視されやすい現状があります
心の内面を見ようとしないのです
これは仕方のない面もありますが、ここが肝要であり、
ここが無ければ目標としている成果なんて達成できようも無いのです

「行い」の前には「思う」という原因が有ります。
もちろん、思う前には「見る」(世界観)という原因が有り、
その背景には、当然、思想、宗教観が有ります
本当は、その世界観、宗教観まで突き詰める必要も有ります

「幸福」が生まれる原因、その具体化の前に必要なのは、より良き思いです。
そして、より良き思いは、それぞれの魂の向上によって支えられます
その一人一人が心を磨き、魂の向上をはからなければ生まれてきません

「ユートピア社会の実現」のためにはより良き思いが社会に必要であり
そのためには、一人一人の「魂の向上」が不可欠です。

この魂の向上には感動が伴います
色んなドラマを見ても、おもしろく感じたり感動するシーンは
確かにアクションやその主人公が努力し達成した成果が素晴らしければおもしろいのですが
その背景には、その主人公の克己心だったり、勇気だったり、改心だったり、感謝の心だったり
何らかの感動するシーンが有ります
登場人物の心の中に起きる、一つの光りが必ず有ります

私たちがドラマなどを見て感動するのと同じように
この宇宙を創られた仏神は、それと同じ感動を得たいからこそ、味わいたいからこそ
この世界を創られたのではないでしょうか

人間が、幸福を求めている存在と認めるなら、魂の向上は宿命でもあるでしょう
個人レベルで、幸福を求めその状態を期待し実現させていくことは、社会レベルで言うとするなら、
理想郷、ユートピア、桃源郷を求める事になります。
その幸福が循環している状態は、当然ユートピア社会です。

幸福というキーワードが
「人生とは何か?」という問いに対して論理的回答を与えてくれることになります。
その答えは
「人生の目的と使命は、魂の向上 と ユートピア建設 である」