幸福になるという事は、権利でなく義務である(2012年8月)

 権利と義務という言葉が有りますが
現代社会は、義務を忘れ権利ばかりを主張する社会に成り下がっているようです

現代社会における不都合なこと、犯罪や戦争、いろんな紛争が有りますが、
それらの望ましくない事が起きている背景は、幸福になることを権利と見ているからのようです
あらゆるところで奪い合いが起きたり、疑心暗鬼によって心の病が広がっているのは
権利の主張によって自分が自分がという思いが強くなっているからです

世間でよく使われているのが「人権」という言葉です。
権利とセットと思われるべき「義務」のことは、あまり使われることが有りません
権利と義務も陰と陽の関係であり、コインの裏表の関係です
しかし、この裏表が、逆転して使われていたり、片面しか使われていない現状ですと
それは存在できなくなり消滅していきます

「幸福になるということは、権利ではなく義務である」とする、
この言葉は、フラクタルの森に入れてみると簡単に実証出来ます
単なる情緒的な受けをねらっている言葉ではなくて法則そのものであることが分かります

フラクタルの森の十字架を見てください。
権利は、右脳的要素(陰)の「情」の部分で見ていることであり      (wont)
義務は、左脳的要素(陽)の「理」の部分で見ていることになります   (needs)
十字架の図をよく見ていただければ、この事は理解していただけるはずです。
「悟性」と「感性」で見ているのが権利(陰)
「知性」と「理性」で見ているのが義務(陽)です。

自由には責任が伴いますが、同じ事です
自由という権利が与えられ、その結果には、義務として責任が伴います
全ての存在に、法則として、このことは在るようです

コインに裏と表が在るように「幸福」にも陰と陽、裏表があります。
コインの表にあたるのが、幸福という成果そのものであり、
コインの裏には幸福を支えている要素があります。
幸福という価値をつくりだしているものです。

ここでさらに深く考えてみると、表と裏、どちらがより重要かという問題がありますが、
深く考えないときには、表(陽)の部分が重要ではないかとどうしても考えてしまいます。
その幸福という結果、その成果を出さなければ意味が無いようにみられがちですが、
その出来上がる順番を考えると違って見えてきます
思いが強く純粋でも、その状況、その環境下では結果まで至らない場合もあるからです
イエス・キリスや弟子達の伝道活動を見てもそうでしょう
過去世界に出現した偉大な人たちが共通して伝えようとしていることは
そのコインの裏側を無視して真の幸福は無いと教えてくれています。
心(魂)の世界がどれだけ重要であるかを教えてくれています

幸福という成果も大切ですが、実は、それを創り出せる心が大切であり
その思いを出せることこそ幸福の根元である現実があります。
これはセットのものです。

人間とは、誰であれ、幸福を求めて生きている存在であると認め、それを前提として考えるならば
幸福という成果を産み出す思いを抱くことは、権利としてとらえる必要があります。
そして、その結果として幸福になるということは、
個人的にだけ見るとどちらでも良いというような意見の人もいるかもしれませんが、
これを社会レベルで見ると幸福という生産物を産み出すということは、
これは、義務でもあり使命でもあることが分かります。

個人の産み出す有形無形の幸福という生産物が、
その本人を幸福にするだけでなく家庭を幸福にし
地域社会を幸福にし、国家を幸福にし、世界を幸福にしていくことになります。
死後の事、来世の事を考えなくても現実の世界であっても、
本人を幸福にしたものが地球を一回りしてその人の背後から、
その人自身の幸福を支えてくれる環境として押し寄せてきます。
そのように循環していきます。

そのように見ると「幸福・ユートピア建設」という成果は、義務であり、使命そのものです
その幸福社会、ユートピア建設のためには、
多くの人々の魂の向上が裏打ちされなければ無理です
人間には自由が与えられてはいますが、自由とは何でしょうか
生きている時間には限りが有ります
その時間の中に何を盛り込むのか、それは、各人の責任です
人は、この地上生活を終え、あの世に帰る時に持って帰れるのは、
魂の中心部分である、心しかないのです
あの世も神も信じないような人にとっては、この世で得た成果や満足だけが問題なのであり
心の中にため込まれたモノなど関心が無いのかもしれませんが
あの世は確実に有り、肉体も財産も何も持って帰ることは出来ません
その心しか持って帰れないのです
しかも、その心が全ての価値あるモノを生み出す原初なるものであるのです
当然ながら結論は、心を磨くしかないのです
そのために、仏教でお釈迦様が言われるように、この世に「苦」なるものが有るようです
心を磨き、魂の向上の為に色んな課題が人生の中に与えられても居るようです
あの世の彼岸に比べ、この世の此岸が「道場」と仏教では言われてきたようです

ということは、その心を磨き素晴らしくしていくことは、その魂に与えられている権利そのものです
そして、磨いたその心が本物であるかどうかを
この地上生活の中でも示しなさいと言われているのです。
義務としてその成果をこの実社会の中で、その結果を出してみなさいと言われているのです
「自らを幸福にしたその心で、家庭を社会を国家を幸福で満たしユートピア社会を創りなさい」
ということのようです

「魂の向上」ということは「権利」であり、これは、生きていることの目的そのものであり
「幸福」になるということは「義務」ということになります
ユートピアを建設しなさいという事です

自分が、今、幸福でないことの原因を環境のせいにする事が多いですが
社会や他人のせいや、生まれ育ちのせいにしているとうことは、問題だと言うことです
幸福になると言うことは義務である以上、その責任を果たすべきなのです
そのために魂を磨くという権利を与えられているのです
そのような法則性が有ることが分かります
まさしく、真理