■ フラクタルの森とは?

■フラクタルとは?

フラクタルという言葉は、フランスの数学者マンデルブローから出た言葉。
昔、TVでこのフラクタル理論とその活用の実際が紹介された報道番組を見て興奮した記憶が有ります。数学は門外漢ですので細かなことは分かりませんが、この宇宙の秘められた部分、その神秘をかいま見たような気分がしました。
それは、大自然の中にも数学があって、地形なり動植物などの映像でも、離れていたり何らかの影響でそのデーターが不鮮明だったりしてもその周辺の映像をもとに一定の法則(変数)を割り出し計算させながら完全な映像に近づけることが出来るというのです。
私は、その当時、この宇宙は、この地上も含め混沌を極め不可思議なことに充ち満ちているという見方しかできていませんでした。しかし、その反面この宇宙には全てを貫いている一定の法則が有るのではないだろうかという思いもありました。人生に迷い、人生とはなにか?訳が分からなくて悩んでいた頃でした。カオスとも表現される世界なのに単なる映像であっても数学で計算されるということに驚きを感じました。
「計算が出来るんだ!」
人生自体も、社会も、混沌としているように見えるけれど、この画像処理と同じようにひょっとしたら数式化することも、本当は可能なのではないだろうか。
人生上の出来事を偶然とか、たまたま起こったように言ったりしますが、本当は、数学や化学、理科の実験の如く偶然に結果が出ることは無いのではないか。
それは因果関係が分からなかったと言うだけにすぎない。
「今」という時間は、現にここに在るけれど、その時間は流れながらも今という時間を中心に過去と未来は「=」で数式の如くつながっているのではないだろうかとも思いました。
「過去=今=未来」
予知夢みたいなことを見る事が有るけれど、イコールでつながっているから直感的に分かる事もあるんだろうと思っていました。であるならば、「今」を変えることが出来れば未来も変えられる。
過去の事実は取り消すことが出来なくても、今の何かを変えることで過去の意味も変わる。そんな風に思っていました。
フラクタルは大きなヒントでした。


フラクタルとは辞書で見ると次のように出ています。

フラクタル  ・・・部分と全体とが同じ形となる自己相似性を示す図形
破片・分割の意のラテン語からの造語。

フラクタル理論・・・複雑で不規則な図形では、どの微小部分にも全体と同様の形が現れる自己相似性があり、したがって部分を次々に拡大すれば全体の形が得られるとする理論。コンピューターグラフィックや、樹木・海岸線・山脈などの形のシミュレーションに利用。フランスのB=B=マンデルブローが提唱。


ここでフラクタルという言葉をタイトルにしているには、やはり大きな意味があります。
数学は全くセンスが有りませんが、この宇宙には定理みたいなモノが有るのだろうと考えました。
このフラクタル理論から得たキーワードは「自己相似性」。
似ているということ。
部分と全体が似ている。
ミクロとマクロが似ている。ミクロの中にマクロと共通するモノがある。
顕微鏡で見るモノと天体望遠鏡で見るモノと似ている。

「神は自らに似せて人間を創られた」と言われるように、人間の中に在る要素は宇宙の根本的な真理に通じているモノがあるのではないでしょうか。。
この宇宙を貫いている「真理」と私達の身近に有るものと無関係ではないと思えたのです。少なくとも、私は、いま、そのように関連づけて認識しています。

私は、子供の頃から、不思議でしたが「真理」という言葉にあこがれがあり、その真理という言葉を、宇宙方程式という言葉に置き換えたりして詩を書いたりしていました。
しかし、真理を求めたいという気持ちは有りながら、人生の前半、私は無神論者でした。
不思議な霊体験のようなことやユリ・ゲラーなどの超能力ブームに触発され、透視力や念力の事にも関心があり訓練もして、確かに不思議な世界が有るということは実感していましたが、しかし、無神論でした。宗教も大嫌いでした。
そして「神の否定」というような文章を書いたりしたこともあります。
そのギャップゆえか人生に迷い、銀行勤めから始まり様々な仕事を体験し、色んな考え方の人との出会いがあり、様々な体験をし紆余曲折した生き方をしてきました。
30代後半に精神世界にさらに入り込み、前世の記憶の断片を意識し始め、陶芸家として土と炎と対峙しながら、多くの学びを重ねることで物事がより立体的に見られるようになった結果「信仰」ということとも真剣に対峙するようになりました。
しかし、それでも、信仰という言葉は辞書的には理解できるのですが、とても腑に落ちなかったのです。うたぐり深い性格なのか「何故?なぜ?」という思いが強く探求を続けた結果生まれてきたのが、このフラクタルの森で説明するところの考え方です。
このフラクタルの森で説明しようとする理論は、なんだか、こじつけているだけに見えるかもしれませんが、とても整合性が有ります。
この森の中で考えるということが、安全に人生街道をドライブすることに役立てていただけると信じて下手な文章を書こうとしています。険しい山道のような人生、この混沌とした世界の中で、車を安全に快適にドライブすることにつながっていくと思います。

■神との約束

はじめに、信仰が、不可欠なモノであることの根拠となる原点を書いてみます。

この世の中には色んな約束があります。その中で一番大切なことは何だろうか?
それは、神との約束ではないだろうか。
こんな事を言うと何を言っているのかと思われる方もいるだろう。
しかし、現代社会の中で色んなひずみが生まれ悲しむべき事件が多発しているのは、この神との約束をホゴにしているからではないのだろうか。神との約束を無視し自らの思う事が全て正しきことと信じた人たちが成している事ではないのだろうか。
私たちは、色んな局面で神との約束を思い出すことで、その思いとその行動に自制をかけることが出来るにも関わらず、自我我欲のままに暴走し自らの存在意義すら危ういものにしているのではないでしょうか。
では、一体、我々は神とどんな約束をしているのかと詰め寄られる方もいることでしょう。
その回答は、過去の宗教家達、偉人達、賢人達が色んな時代に色んな地方で述べ伝えてくれているのでしょうが、しかし、現代ではそれらの宗教が覇を競い争っています。
それぞれの教え、それぞれの考え方のみが正しいとして、他を排斥しあっています。
誠に悲しむべき状況です。それぞれの予言者達は、神、仏、天とか言われる存在からの言葉を伝え、その至高神との約束を思い起こさせようと努力されてきたのでしょうが、その教えは、どうしても時代性地域性から抜け出すことが出来ないでいるようです。
さらに、最近では、それらの宗教の争いに加え、神、仏、天を否定し「無宗教」を標榜するような人たちも出てきて、さらに争いに拍車をかけている面があります。
宗教には色んなものがあり、同じ宗教でもそれぞれに分派し、それぞれの正しさを主張していますが、宗教を大きく分けると「無宗教」「一神教」「多神教」の3つに分かれ、さらには、「至高神」という考え方も有るでしょう。
過去の諸聖賢の方々の教えであっても、それを受け取った人たちの理解と利害によって分派化して紛争し殺し合っている姿を見ているととても悲しく思います。
それぞれに、いったいどのような神との約束を守ろうとしているのでしょうか。
本当の神々との契約ではないものも有るのではと思わされるほどです。

このバランスのとれた宇宙の運行とこの地球上の地上生命の維持の為に必要な環境維持の設定は、偶然に成り立っているとは思えません。自然界のチョットした揺らぎのバランスが崩れるだけで私達人類の生存環境など無に帰することは簡単なはずです。
ほんのちょっとした狂いでその環境が破壊されてもおかしくないのに、環境が整えられ我々の生存が許されているということは、天の加護、神々からの恩恵を受けているに違いないでしょう。その加護を受けている背景には、天、神との契約、約束が有るはずです。
その約束を多くの人たちが破り全体としてホゴにしていったときに何が起こるか?神様の思いをそんたくすることは不可能かもしれませんが、推測することは可能です。
その基本的な約束を思い起こす必要が有ります。

では、これだけの思想、宗教のるつぼと化している地球上で、一体何を基準として私たちは生きていけば良いのでしょうか?。これだけ混迷を極めた社会であるなら、今一度原点に返り、シンプルに神との約束を思い起こす必要があると思うのは私一人ではないでしょう。ここに神との約束を思い起こし、神意、天意を感じるのに良い題材があります。
それは、我々が大地から産み出されたように、土から産み出される器の事を考えてみると良いのです。

■人間は土から創られた

私は、陶芸を職業にしています。
いつも、粘土から器などを造っており、時々、土ひねり体験をされる方のお世話をさせていただきます。
備前焼の土ひねり体験は、楽しく癒しの効果が有るだけでなく、私たちにいろんな気づきを与えてくれます。粘土の固まりから器などを作るわけですが、その単純な作業の中に普遍的な真理がかいま見える所があります。
それは、単純で、余分な枝葉が無いから見えやすいのかもしれません。
土ひねり体験の中にはいろんな要素がありますが、この地球が創られ我々人間がこの地上に生存していることの意味を気づかせてくれる部分が有るのです。
それは、考えてみると、あまりにも単純なことです。
土ひねり体験をとおして神々が私たち人間を産みだし創造された事実を確認することができると共に、そこに込められた想いをかいま見ることが可能といっても良いでしょう。
備前焼でも人間でも、生まれて来る過程があります。
器にしろ人間にしろ、その元となっている材料があり、出来上がっていく過程が有ります。
土ひねり体験では、基本的に600グラムの粘土の丸い固まりから始めてもらいますが、我々人間の始まりも、この丸い地球という大地、土のかたまりから始まっています。
人間も器にたとえられることがありますが、人間も土から出来ているのです。
このように表現すると不思議な感じがします。
もちろん出来上がる過程、その経過には雲泥の差が有るでしょうが、根本は一緒です。

粘土(土)から作品(器)が創られるように
地球(土)から人間(器)が創られました。

これは紛れも無い事実です。
元々、地球が生まれた時には灼熱の溶岩の固まりだったのでしょうが、それがやがて冷えて地表は土のかたまりとなりました。地球の原初には土の固まりしかなかったのです。
そこから人も何もかも、万象万物全てが産み出されている現実を認める必要があります。
唯物論の暗示にかかっている人たちは、それでもダーウィンのように突然変異と自然淘汰の結果、適者生存し偶然に進化してきたように思うかもしれません。有機物さえ出来れば自然に集合し変化し進化することが出来たとも思ってもいるでしょう。しかし、これは、明らかに思考を停止させ見えない世界を無視した一つのカルト教のようなものです。

何でもそうですが、創造的な結果がもたらされる背景には必ずそのための「思い」が必要です。地上生命が産み出される背景には、粘土で作品が造られる時と同じくその当事者の存在が必要です。その思いを投影している主なる存在が必要となります。
この地球上のことも、土ひねりも全て同じです。

以前、何かの本で読んだのですが、人間の体に含まれている元素の比率と、地球に含有している元素の比率とが同じだと言うのです。人の体は、死ぬと灰になり土に帰っていきます。粘土(土)から作品(器)が創られるということは、誰でも追体験できることなので何の不思議も感じないでしょうが、私たちの体が土から創られたということはとても不思議です。しかし、時間の長さが違うだけで、同じ土から生まれているということは、その原因と結果をつなぐ途中に必要な要素は同じものがあるはずです。
では、なぜ?私たちは、創られたのでしょう。何のために創られたのでしょう。
創られた以上、そこには約束事が発生しています。
では、その約束とは何でしょう。

■陶芸体験から推測する仏神のお心

私たち人間の存在意義は、いったいどこに有るのでしょうか。
これは、人類に突きつけられている永遠のテーマであり問題集です。
このテーマに回答を出すことは、ある意味簡単です。
それは、粘土(土)から作品(器)を造るときの事を考えてみれば良いのです。
粘土(土)から作品(器)を創り出すときに必要な要素は、単純に言うと二つです。
それは、そのように「思う」こと「行う」こと。
イメージとそれを具体化させる為の行動、その二つです。
粘土(土)が偶然に作品(器)になることはありません。
何十億年、何千億年の時間を待っていようと、何が起ころうと不可能なことは明白です。
粘土(土)が作品(器)になるためには、作ろうとする思いと、それを具体化させる行為、きっかっけが必要となります。偶然出来る訳は決してありません。
必然としての流れが有ります。と言うことは、当然ながら、地球(土)から人間(器)が創られる過程の中にも同じ流れが必要なはずです。流星がぶつかって仮にアミノ酸が出来ようと、あの単純な陶器の器でさえ不可能なのですから、どんな偶然が積み重なっても単細胞すら出来上がることは不可能です。

ダーウィンが言うように偶然に進化しただけではないでしょう。必ずその背景には意志の力を持っている霊的な存在が必要です。進化させようとする意志の力が働かなければ、進化と退化、言葉上だけ考えても半々ですから、丁半博打のような偶然性で、この地球上に土を材料として高度な生命文化を創り上げることは、まったく不可能です。
どのように考えても、その思いを投げかけている霊的存在が在るのです。
高級諸神霊、仏、天、サムシンググレート、なんと言っても良いでしょうが、そのような方々が我々の魂自体も産み出し、この地上生命環境も産み出し、我々の魂と共に地上文化を育んできた結果の今という時代に生きさせていただいているのではないでしょうか。
この様に考えると、単純な土ひねり体験の中に、神々が我々人類を産み出した同じようなことを追体験させていただいているのかもしれません。
人類創造の目的と目標がかいま見えるのではないでしょうか。
私たちの存在意義が明らかに出来るはずです。
神との約束がどのようなものであったのか思い起こすことも可能です。

では、私たちは、何故、土から器を創ろうとするのでしょう。
一つには、楽しいから造っています。
これは、原点にあるでしょう。
創造の喜びです。そして、何を造るか、その目標が無ければ形が出来てきません。
お皿なのか、カップなのか、花を生けたいのか、見て楽しむようなオブジェなのか、何らかの具体的に役に立つ形を目標とします。そして、使う楽しさです。
どうやら、これらと同じような単純な要素で私たち人類の存在が意義有るものとして悠久の時間の中で創り出されていることが考えられます。
そのキーワードを引っ張り出してみると、この二つが在るでしょう。
心の「喜び」(陰)と結果としての「お役立ち」(陽)です。
そのことが循環しているようです。

私たちが土から作品(器)を作り出すように、神々も私たちをこの地上に作り出しました。
それぞれに個性ある器として人間が創られています。
おそらく、その作り出している神々自体も、より高次な存在の念いが具現化して創り出されたものでしょう。根源の神、仏の思いがどこに在るか定かには分かりませんが、私たちが土に対峙し格闘し何らかの物を産み出している作業と似た要素が在るはずです。
私たちの思いと行い、その目的と目標が、創られたときのそれと大きく離れていったときに、大きな苦しみとなっておそってくるのではないだろうか。
その目的と目標、その使命を果たせているときに大いなる喜びの中に包まれるのではないだろうか。粘土から器を創るという単純な作業の中に仏神の聖なる思いをかいま見ることが出来るから、無心に土にさわっている事がたのしいのではないだろうか。

私は、陶芸家としてたくさんの器達を産み出しています。その器たちが、それぞれの場所でそれぞれの働きをし、喜ばれて使われている所を目にするととても嬉しく思います。
そして、しっかり活かされ使われている器たちの中に、自分が造ったと思えないような輝きを放っている器たちがいます。それは、何とも言えない驚きであります。
おそらく、主なる神がこの全宇宙を創造され、多くの神々が、手間暇かけてこの地球と、この地上の生命文化を創造された理由は、こんな所に在るのかもしれません。
私たちは、具体的に神々の声を聞くことは出来ないかもしれませんが、色んな局面で神の顕在を感じ、天の意志を感じようとすることが非常に大切な事ではないでしょうか。
神との約束を思い起こしたときに、人間として本当に生きているという実感が感じられのだと思います。
あの偉大な科学者であるアインシュタインも次のように言っています。

「科学を真剣に追究している者は誰であっても、
宇宙の法則の中に神の霊が顕在していることを
確信するに至るのです。
神の霊は人間の霊をはるかに凌いでおり、
神の霊を前に人間は自らの力のささやかなることを知り、
謙虚にならざるを得ないのです」
    (アルバート・アインシュタイン)


直線上に配置