私は、今、ここに、なぜ、生きているのか?


 「私は、今、ここに、なぜ、生きているのか?」

このことを考えたことが無い人は
目の前の事ばかり考えてきたのだろうか
結果を出すことばかり考えてきたのだろうか

「なぜ?」
これを繰り返しているうちは
何らの成果をもたらすことは無いのかもしれない

しかし、これは、「人間」とは何かを問いかけることであり
人生の意義を知ることでもある
この人生の根幹、土台を知ることなく
その上に立派な人生や
社会という建造物を建てたとしても
それは、砂上の楼閣ともなるだろう

左翼思想、唯物論、無神論の暗示にかかっている人たちは
今、まさに、それを気づかなければならない
目の前の成果を出すことだけに
目に見える地表に出ている骨組みや外壁に腐心してきた
そのことが、やがて
自らの建造物を倒壊させる事にもなりかねない

基礎を、今一度見ることだ
土台を、今一度検証してみることだ

今なら、まだ、間に合うかもしれない

「私は、今、ここに、なぜ、生きているのか」
この問いかけに、何故を、数十回加え検証した先には
結局は、解らないという答えしか待っていないだろう

しかし、ソクラテスの「無知の知」という言葉が有るように
「私は、知らないという事実を知っている」
この謙虚さが、偉大なる真理をかいま見るための智恵ともなるだろう

この真智を知ることなく、人生を終わるとするならば
どれだけの不幸だろう

そのことを、知りたくもない、見たくもないという気持ちが
その思考停止を助けているのだろうが
それが、どれだけの不幸につながるのか
その事こそ恐れる必要が有る

砂上の楼閣となった自らの人生という建造物が
大きな音を立てて倒れていく姿を
その目で、その心で、見せられることの悲しみよ

生きている今世において見ることがなかったとしても
来世において究極の結果が見せられることになるだろう
死して後、来世が有り、魂は残り、その記憶も残るという真実を
頭から否定する気持ちの中に自らの独善的な思いが有る

思考停止することなく、なぜ?どうして?を繰り返すべきだ
来世において、その建造物が倒壊していく姿は取り返しがつかない
これは、ただ、悲しいだけではない
現実の此岸、この世においても多くの建造物が倒壊し
社会そのものが破壊されていく姿ともなるだろう
多くの人々にもその被害は及ぶだろう

そのような悲しい姿を、今世においても来世においても見たくはない
2012/10月