お正月の行事
 神棚・神床の飾り
   

 神棚には、お飾り縄を張り、餅花、だいだい、昆布、ほんだわら、いわし、股大根、重ね餅などを供えました。



 餅花は、藁の束や卯木の枝などに、小さく切った餅を花が咲いたように付けたもので、、家運、縁起が花咲くようにと願って飾りました。



 床の間に、三宝に半紙を敷きその上に裏白の葉をのせ、鏡餅、干し柿、干しするめ、だいだい、昆布等を乗せて飾りました。餅は、望月(満月)に通じ、その丸い形から家庭円満を象徴するとも考えられており、縁起物として正月に飾られるようになりました。
 
 
 コトコト馬
 
  戦前前まで備中地方で盛んに作られていたコトコト馬は、旧正月行事で使われたものです。
  この行事は旧正月10日夜、子どもたちは用意していたコトコト馬を持って近所の農家に行き玄関や縁側に置き、戸をコトコトたたいて隠れ待つ。家の主人は餅や金封を渡し、コトコト馬を持って大きな声で「ヤレボー、ヤレボー」と叫びながらその年予定している苗代田に行き鍬の使い始めをしました。
  「ヤレボー」の掛け声は「八重種」が転じた物と言われ、たくさんの実りがあるようにと願いが込められています。


  厄年(特に61歳)には、厄をはらうため神社でお祓いをしてもらいます。そしてその夜は親戚も呼んで厄払いの酒宴を持ちました。酒宴の最中に地域の若者はコトコト馬と金一封をその家の縁側に置き、戸袋等をトントンとたたき家人知らせ物陰に隠れました。家の人はコトコト馬は神棚にかざり、お礼に金一封(倍返し)、酒の肴を縁側に置きました。物陰に隠れていた若者は、それを貰い一杯飲みました。


  結婚式は今ではホテル等で行うのが普通になりましたが、かつては各家で行っていました。式も無事終わると祝宴が夜中まで続きました。地域の若者は、当家の縁側にコトコト馬や石塔か石仏を持っていき縁等をコトコトとたたき物陰に隠れ待ちました。当家では酒、肴を用意し縁側に置きました。若者は他の場所で宴会を開きました。石塔や石仏を持って行くのは花嫁(花婿)が嫁いだ家で、いつまでも幸せに暮らしてほしいという願いから始まったと言われています。なお、当家では石塔、石仏がどこから持ってきた物か分からないので、元の場所を探すのに一苦労しました。


  ※現在は、馬を綯うことのできる人が居なくなり、この風習は亡くなりつつあります。
  
 
 まっとう
 
  1月14日に上の町内で行っていました。(現在ではなくなっているようです。)
  「まっとう」は、的(縦横1.5mで黒色の輪3つ)へ向かって矢を放ち、不浄が町内に入らないようにとの願いで始まりました。14日の午前中は上野下の阿弥陀堂で、午後は上野上の八番神社でまっとうが行われました。神事は禰宜が羽織、袴の正装で代々受け継がれた呪文を、口の中で唱えたのち、約8.8m離れた的に向かって矢を射りました。
  最初は、3本の矢を射ると、禰宜代理が「まっとうのこまのこ、ところの悪魔を、射はろうた」と言いました。そして、阿弥陀堂では1月~6月の6本の矢を射る。八幡神社では7月~12月の6本の矢を射る。真ん中に当たれば「まっとうのこまのこ」、白いところに当たれば「まっとうの白」、黒いところに当たれば「まっとうの黒」、的枠から外れると「まとうの黒」というように、的に当たる様子を禰宜代理の人が大声で知らせました。そして、その日の夜「くだがゆ」「おきびあげ」が行われました。

 
  くだがゆ(管粥)
  氏神様の三座神社」で「くだがゆ」神事が行われました。まず、禰宜が祝詞を唱える。そして、宮がかりは4寸ほどに切った篠竹の筒に、米(早生、中、晩生)麦、蕎麦、栗などが分かるように印したものを束にし、その竹筒を粥鍋に入れて炊く。粥が炊き上がると祝詞を上げ竹筒を引き上げる。そして、竹を順に割り粥の入り具合で今年の麦は九分作、早生の稲は八部作等と作柄を占いました。

  おきびあげ(おき火占い)
 
粥を炊いたおき火を、いろりの縁に月の順に12個(うるう年は13個)並べる。そして、おき火の具合を見て、灰で白くなればその月は上天気、黒い炭になれば雨、白黒になれば曇り、ピカピカ光ればその月は大風が吹くというように占いました。結果は月別に記して神前に張り出し皆に知らせました。
 
   きつねがり
 「まっとう」が終わると、夕方に禰宜が「きつねがあーり」と大声で叫んだ。これを受けて、各家が順番に「きつねがあーり」と叫んだ。そして、「おきびあげ」が終了する真夜中に、禰宜が一言「きつねがあーり」と叫んだ。「きつねがあーり」と叫ぶのは、悪魔払いの意味があると言われています。
 こうした、行事は昭和30年代まで続きました。
 
          春・夏の行事
 端午の節句  花まつり(甘茶祭り)
 
 
 
  端午の節句は奈良時代頃から始まったと言われています。もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日を言い、5月にかぎったことではなかった。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日をさすようになり、やがて5月5日のことになったと言われています。
  「端午の節句」は、男児の誕生と健やかな成長を願い鯉のぼりを掲げて祝いました。また、「端午の節句」は「菖蒲の節句」とも言われ、5月4日の夕方菖蒲とよもぎを束ね屋根軒に挿すと、魔よけや雷よけになると言われました。菖蒲を風呂にいれ菖蒲湯につかると、無病息災で過ごせると言われています。また、菖蒲を敷き布団に敷いて寝ると長患いしないとも言われました。 
  花祭り(甘茶祭り)。4月8日はお釈迦様の生まれた日で、お釈迦様の誕生を祝って各寺院では甘茶祭りが行われました。甘茶をお釈迦様にかけ、先祖の霊を祀り家内安全を祈りました。花祭りの日には、檀家の人たちは「トックリ」を持って行き甘茶をもらって帰り、家族みんなで飲み祝いました。また、甘茶で墨を摺り小さな紙に「茶」と書き柱に逆さに貼ると、ムカデ等の毒虫を防ぐとと言われています。(甘茶は甘茶の葉を乾燥後、煎じたもの)
 
  しろみて(どろおとし)
  昔は、牛による田おこし、代掻き、そして手植えによる田植えと続く農作業は大変でした。特に、手間のかかる田植えは2~3軒が組になり共同作業で2~3週間かかりました。
  無事田植えが終わることは、農家にとってひと安心の日でした。各家では、田植えの労をねぎらうと共に豊作を願いご馳走を食べ休みました。(地区でまとまって休むところもありました。)

    
 虫送り
 
虫送りの行事がいつ始まったかははっきりしないが、平安時代の武将、斉藤実盛が合戦中に稲株につまづき、敵の大将に首をとられたことで、稲を恨み虫になって稲を食い荒らすようになったという言い伝えから始まったと言われています。
  虫送りの行事は、旧暦6月1日以降土用にかけて各町内で行われ、大事な稲を害虫から守り豊作を祈願しました。
  上野町内では、麦わらで斉藤実盛の大きな人形を作り、農作物の害虫を捕りわら人形にくくり付けた。そして、町内の皆が「さあ-ねんもうりゅう送った、西野はあーてのはあーてまで」と大声で叫びながら、わら人形をかついで行き、「いもおか」の山へ納めていた。
  西迫・井戸町内では、檀家当番がわら人形を作り、いろいろな虫を捕ってきて人形に付けました。井戸のお堂で光林寺住職に拝んでもらい、その人形を担いで巨瀬との峠境まで行き立てて置いた。
  柴倉町内では、柴倉の神社でわら人形を作り栗、きび、稲等をつけて佐伏川まで運び川岸に立て実盛様を送りました。こうした「虫送り」の行事は町内各地で行われました。

 
 土 用 念 仏  
  各町内では、土用に入って3日目(土用さぶろう)5日目(土用ごろう)の日に念仏を行い家内安全・無病息災を祈りました。
   柴倉町内では、3日間行いました。1日目は柴倉前、2日目は柴倉後の各戸を回り念仏を唱えました。各家では赤飯のにぎり飯等を出してもてなしました。3日目は柴倉大堂に光林寺住職を招き、全員で数珠を回し念仏を唱えました。
  上野町内では、「漆や念仏」を行いました。阿弥陀堂の前で、鐘をたたいて念仏を唱えお堂にこもりました。夜が明け次第、のぼり(寺院で作ってもらった物)を竹笹に付け担ぎ、鐘をたたき念仏を唱えながら町内の家々を回りました。夕方次の座の人が来たら鐘・槌を渡し、次の座が念仏を続けました。こうして七座が順に行うので7日間念仏が続きました。(昭和30年代まで)
 こうした念仏は、町内で日時や作法は異なりますが、各お堂で行われていました。
  
  雨乞い

 農業にとって水不足は大変である。長らく日照りが続くと各地で雨乞いをした。
 柴倉・花木・上野・西本町内等では、ごうおう様(日向にある潮滝)に参りお堂にこもり、水が出るまで拝み雨乞いをした。(潮滝は間欠泉)また町内では大ぐよしをした。
 佐内町内では、津々川の通称「亀岩」の右岸に石仏を祀った社があり、ここで鐘や太鼓を鳴らし雨乞いをした。なお、石仏は洪水で流出し現在は無くなっている。
 津々地区では、佐井田城の外堀(ようがい池)に住むうなぎを捕って来て御嶽様に供え雨乞い神事をした。雨が降ったら、お礼に境内で松明を焚いた。
 横内町内では、山上様に参り「仁王様雨を賜われ、仁王様雨を賜われ」と拝み、境内では檜の葉を燃やした。鍛冶屋町内では、観音様(観音滝にある)を津々川まで運びそこで拝んだ。このように町内各地で雨乞いをした。
 
  盆 の 行 事
 
 正月は歳神様を迎える儀式に対し、お盆は先祖供養の儀式で旧暦の7月15日を中心に行われる。盆は先祖の霊があの世から現世に戻ってきて、再びあの世に帰って行くと言う日本古来の信仰と仏教が結びついて出来た行事である。今では新暦太陽暦の8月13日の「迎え盆」から16日の「送り盆」までの4日間をお盆と言う。

 七 夕
 七夕は旧暦7月7日の行事であるが、今では新暦の行事になっている。
 七夕飾りは6日の朝行う。七夕飾り用の竹を縁側に2本立て、里芋の葉にたまった朝露で墨をすり、短冊に「願い事」「天の川」「七夕様」などを書き笹に吊るし飾った。そうすると、字が上手になるとか、願い事が叶うと言われている。縁側の机には、里芋の葉を敷き七夕団子、きゅうりの馬、なすの牛、みょうがの鶏等を作り供えた。7日の朝、七夕の笹竹を川に流しに行った。
 この日は、七へん水浴びをするとか、七へん着物を着替えるとか、七へん髪をとくとかすると良いことがあると言われている。

      盆準備

  なのかび
 7日は盆始めとも言い、各家とも盆の準備に取りかかった。仏壇、墓地を掃除したり、井戸(くみかわ)の水換えなどをした。
 また、この月になるとお寺さんが「棚経」と言って各檀家の仏様を拝んで回る。かっては、仏壇の位牌を床の間に出し祀っていたが 、今では仏壇で祀ってる家がほとんどである。
  水 棚
 庭先に、竹で約30cm四方で高さ約1.5mの棚を作る(または、三角柱の棚)。棚の前方には、割り竹で段の縄ばしごを作る。棚の上にはすの葉(里芋、桐の葉)を敷き、米、なす、きゅぅり、そぅめん等を供えた。




       盆迎え(盆の入り)
 13日は盆迎えの日。霊を迎えるため夕方には仏壇や盆提灯に明かりを灯し、ぼに花や果物、なすやきゅうりで作った牛や馬を供えた。これは祖先の霊が「きゅうりの馬」に乗って早く来てくれるように、名残惜しいので「なすの牛」に乗ってゆっくり帰るようにとの願いを込めたものとも言われている。
庭先では、松明を焚く。これを「迎え火」と言い、精霊に戻る家を知らせるためと言われている。

 盆
 14〜15日は精霊が家に逗留しているので、仏前におはぎ、そうめん等を供え先祖を供養する。また、夕方には家族、親戚そろって墓参りをする。墓前には線香、団子、菓子、米等を供えたり、松明を焚き供養する。

 送り盆(仏送り)

 16日の夜には、仏様があの世に帰って行かれるので、地区によっては、里芋の葉に供え物を乗せ谷や川に流していた。また「迎え火」と同じように「送り火」を焚き、帰り道を照らして霊を送った。

 盆おどり

盆には、町内の各広場やお堂、寺の境内で盆おどりが赈やかに行われた。これは精霊を迎え、慰めるための踊りであると言われている〇
踊りには、「てんがらこう踊り」「せんす踊り」「やとさ踊り」が主に踊られた。
 
 
 秋・冬の行事
 天 王 送 り
 
  土用の3日目か5日目、または9月前後に各神社単位で「天王送り」を行う。天王様の「のぼり」「わらにへいぐしを立てたもの」を作り、天王様を拝む。その後、社殿の近くの山中へ(太鼓をたたくところもある)「のぼり」を持ってお送りする。社殿に帰る際無言で、小刀等の刃物をまたいで帰る。また、疫病が町内で流行しないように祈願した「関札」(辻札)を町内境に立てました。

   
 
 百万遍念仏
  秋の彼岸頃、町内のお堂で拍子木や鐘をたたき、皆んなで数珠を回して「般若心経」をあげたり「なんまんだぶつ」「なんまんだぶつ」 と念仏を唱え家内安全、五穀豊穣を祈念しました。念仏が終わると当番の作った、お接待を食べ日常生活や農作物の出来具合につい て談笑しました。こうした念仏は少しずつ作法は異なりますが、町内各地で行われています。

 八  朔
  旧暦8月1日を言う。この日は団子等作り食べた。この日で昼寝も終りで、夜なべが始まると言われていた。
  「夜なべ」は夕食後、各家で1~2時間は行った。「いろり」で暖をとりながら農作業の道具むしろ、俵、さんだわら、わらぞうり、おいせご、縄等を作りました。又ほし柿用の柿の皮をむいだり、豆をよったりしました。
 

  社 日
  秋分の日(春分の日)に最も近い戊(つちのえ)の日を言い、地神様を祀りました。地神様のしめ縄を取り替え、お酒等を供えました。この日は、地の神を祀ると言うことで田畑の仕事をしたり土を掘ったりしてはいけないと言われている。


 秋祭り
  秋祭りは、収穫の歓びを神に感謝するため神前に収穫したお米や山の物、海の物を供え祀りました。
  中井町には、24の神社がある。それぞれの神社で秋には盛大な祭りが行われています。また、神社によっては、奉納子供すもうが行われました。
  特色ある秋祭りでは「直会」(なおらい)に特色がある。直会とはご神前に供える供物で、祭典後氏子がいただきました。
  大倉神社(西本)甘酒を供えた後、参拝者に振る舞う。飲み放題なので14〜15杯も飲んだ人もいました。
  八幡神社(横内)かってはどぶろく(麦のどぶろく)を供えた後参拝者に振る舞いました。しかも飲み放題なので、みんないい気分になりました。
  天神社(入野)夏越祭の直会はきゅうりに塩をかけ、秋祭りの直会には大根の輪切に塩をかけて供えました。
  山神社(大松)米3升3合で米粉を作り練り、男女のシンボル団子を作り雑煮にして供え、氏子が食べました。
 ぎょうだに様(大松)大鍋でそばごうせんを作り供え、参拝者に振るまいました。
 天神社(丑手)大根の輪切りと「ごっくう」を、ほうの木の葉にのせ供えました。


 荒 神 神 楽
 
 
  荒神様(かまどの神様)は土地の守り神、先祖神である。その荒神様を大々的に祀るのが「式年祭」で干支が一巡する13年目か、その中間の7年目に行われる(熊野神社では17年目、山神神社では9年目に行われる)。その式年祭で舞ぅ神楽を荒神神楽と言います。神楽は夜通し舞い家内安全そして収穫への感謝を込めて荒神様に奉納しました。荒神神楽では稲藁で約3間ほどの大蛇を作り、神楽で使用後翌日その大蛇を担ぎ田畑を練り歩き五穀豊穣を祈願しました。

     天心講冬至祭
  山際町内で冬至の日に行ぅ。一年で一番日の短いこの日に、天照皇大神宮を拝み明日から日いちにちと長くなる日の恵み一陽来復と無病息災を祈願し神職を招き「高天原」の千卷之祓いをする。かっては、当番の家を回っていたが現在は公会堂で行っている。

 天心講次第
  一座
    大祓を  三二卷唱える
    略祓を  十七卷唱える 
    内訳   大祓二巻、略祓い一七卷、大祓一巻  計  五百卷
    中食   小豆飯汁
     二座
  一座と同じ祓いで五百卷を祈る

     山上講(さんじようこう)

  追田町内では毎月6日(大草町内では毎月20日)の夜行っている。ほら貝、錫杖を鳴らし皆で読経する。他の町内でも形は多少違うが行われている。
  また 後山(東粟倉)での大祭(9月7日)には、町内こぞってお参りする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

緑ゆたか 落ち着いた山里
 
 春は山桜  初夏にはホタル
  
  山田方谷ゆかりの史跡が残る里

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