よく世間では「香り松茸、味しめじ」などと言われる。

しかし、真実はそうではないと俺は確信する。
松茸はうまい。そう思うのには幼い頃の思い出が大きく影響しているのだろう。



俺がまだ小さい頃、我が家の所有する山林には松茸が結構な数、発生していた。
当時はまだ松食い虫などという危険な生物や異常気象、自動車の排ガス問題も我が家のある地域には影を落としておらず、松茸の自生する山林所有者ならシーズンになればまずまず口にすることが出来たり、ちょっとした収入になるくらいの収穫量があった。


初秋の霧深い早朝、父に連れられて松茸の発生する山に入る。
里山とはいえ、霧に包まれた山というのは俗世を離れた深山幽谷の気配が少しあり、また早朝の冷たく引き締まった空気と相まって神聖な雰囲気すら感じる。
足元はみっしりと枯れた松葉が降り積もり、まるでマットレスの上を歩いているがごとくである。

父が指差すところを見れば、どことなく枯れた松葉がこんもりと盛り上がっている。どうやらあれが松茸のようだ。
松茸というのは最初の一本を発見できれば、周囲へ円状に生えているため比較的多数を見つけ易い。
とはいうものの、やはり子供の目にはあまりよく分からないのが現実。
あまりうろうろしないように注意を受け、収穫するのを見ているとたちまち20センチを超えるくらいの傘の開いていないやつ、いわゆる「中つぼ」が採れた。

それを早速家に持ち帰り、調理する。
加熱する前とはいえ、香りが部屋一杯に広がるほどだ。
まずは周囲に着いた土や木の葉を丁寧に取り除く。水で流すのはご法度であるそうだ。
その後調理するわけだが、ここでも刃物などの金属で切断するのはよくないらしい。金気を嫌う、と話に聞く。

我が家でポピュラーなやり方は、蒸し焼きであった。
濡らした新聞紙で包んだ松茸をさらにアルミフォイルで包み、加熱する。
頃合を見計らって火からおろしおもむろに包みを開ければ、芳醇で鮮烈、独特な深い山を髣髴とさせる香りが部屋中に広がっていく。

その熱々の松茸をどうにかこうにか手で裂いて、湯気をあげているところへ醤油と酢(柚子などでは香りが強すぎるのかも)を落として、家族で食べるのである。

無論当時はまだ幼い嗅覚・味覚の俺ではあるのだが、しかし松茸のしゃきしゃきとした歯ざわりと香り、それにも増して豊かな味わいをいまだはっきりと思い出すことができる程だ。

たくさん採れたり、かさが開いてしまったもの「ひらき」の大きなものが手に入ったときにはすき焼きに入れるのもうまかった。
濃厚なすき焼きの中に在ってもなおその存在が際立つ。さすがに香りはかなりかき消されてしまうのだが、そのうまみはなお花開く、といったところであろうか。



しかしこういった豊かな山の幸との生活も祖父の死後、相続の問題等があって我が家には時々やってくるいただきものの松茸しか手に入ることが無くなった。
松茸を見つける技術や自生するポイントといった文化的な家庭内の相続は俺に伝わることなく、父の代で途絶えることになった。

残念な事である。



著:戦車




戻る