仕事柄、他人様のクルマの中を見る機会が多いというのは以前書いたが、その話だ。


先日、車検のために凄いクルマがやってきた。
そのシルバーの三菱ミニカ4ドアは、気配からして既に常識を超えていた。

客先へ引き取りに行った工場長が会社に帰って一言「…吐きそうだ」と言って姿を消したことからも容易に想像できる。


臭い。

それはオーナーが犬好きで、始終愛犬を同行していることに起因しているのだが、犬臭いのだ。


作業担当は俺に決まった。
早速問題のクルマに接近してみる。

臭い。

えもいわれぬ動物臭が閉じたドアから漏れてくる。
これは三菱車のドアの立て付けが悪いのが問題ではない。内部の悪臭が完全にパッキングされたドアを透過してくるのだ。

運転席ドアを開けると、悪臭が押し寄せてきた。
その時の様子をまざまざと思い出すことが今でも可能だ。その悪臭に色が付いてこちらに押し寄せてくるのが見えるかのごとくの恐怖。無論色は黄色である。

臭い。


臭いというものは、実は人体にさまざまな影響を及ぼす。
アロマテラピーなどはそれが良い方向に働く例であろう。

しかし、ここは戦場だ。
悪臭を感知した我が鼻孔は脳に危険であると信号を発したらしい。

頭の中心部分が痺れたのだ。こんな経験は後にも先にも初めてである。

俺の中の野生が叫ぶ。
ここは危険だ。今すぐ離脱しろ。

吐き気を催し、寝不足の頭は「今すぐ帰って寝るべき」と指示、胃腸は「今すぐトイレに駆け込め」と脳にアラートメッセージを放つ。
冷静に判断して、5分間この車内に座ることは死を意味すると言えるだろう。


だが俺は会社員だ。会社の命令は絶対なのだ。

防塵防臭マスクを装備し、すぐに中古車と同レベルの洗浄を施す。
フロアマットを熱湯洗浄し、車内を人体に悪影響を及ぼすほどの強力な洗剤で一掃する。
悪臭は一旦は去ったかに見えた。

しかし、車内の乾燥度が上がるにつれて再び悪臭が立ち込める。
以前よりは随分ましではあるが、すっぱ犬臭い。

ワインの評価的に言うなら…。
熟成されたたんぱく質特有の香りが搭乗者を包み込み、さらに上書きされるようにフレッシュで芳醇な犬の香りがさっきまで車内に存在したかのような新鮮さを強烈にアピールする。
色で喩えるなら黄色といったところであろう。毛は長い。

フロアマットなどは犬の毛が丹念に織り込まれた絨毯のようになっていてドライバーを包む。優しさに包まれるのは荒井由美で充分だ。



…地獄を見れば心が乾くと歌にもあるが、俺は2日に渡ってその犬臭いマシンをメンテナンスすることになった。
その時の心情、言うまでもないだろう。



オーナーの嗅覚が疑われる。俺には無理だ。



著:戦車




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