経営学の感想文
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『誰がケインズを殺したか』の感想
ケインズは、1883年のイギリスで生まれました。ケインズが、生まれた年にカール・マルクスが、死んだ年でした。彼が生まれた家系は、上流階級の家系で、彼の父親はケンブリッジで、学生に経済学を教えていた先生でした。ケインズの所属していた「ブルームズベリー」のメンバーの議論するテーマは、世代によって違うものでした。ケインズの経済学は「混合経済」と呼ばれているのだと思います。この経済は資本主義経済の欠点を改善し、また社会主義経済の欠点を改善したことによりできた経済です。上記のことを考慮すればケインズの考え方は、時代の移り変わる中で、考え方を変えて、今私たちが住んでいる時代に引き継がれているのだと思います。.
『ケインズ』の感想
ケインズは、一度ケンブリッジ大学を離れて、役人として働いていた時もありました。彼の唱えた、経済の主体である「確からしさの論理学」は、論文としてフェローの地位を獲得しようとしたが、それは失敗になってしまいました。翌年、再提出された「確率論」の論文によってフェローとなったのでした。彼は、「ビルト・イン・スタビライザー」と言う制度を作っていました。そして第二次大戦後の、ケインズ経済学は現在の世界では、重要な地図の役割を果たしているのだと思いました。
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『伊東光晴のケインズの感想』
ケインズの経済学が活躍したのは、第一次世界大戦後の時です。この時はドルが事実上の管理通貨となっていました。その裏には国内の物価水準の確保が狙いでもありました。ケインズは「金を専制君主制から、引きずりおろしてそこに立憲君主制として、経済を復活させよう」としたのでした。しかしこの制度はアメリカやイギリス以外の国では、出来ませんでした。その理由は、アメリカやイギリスは、その当時は金が出ていた国であったのです。その後ケインズは、第二次大戦が終わって出来た国際通貨基金協定が出来る際、自分の経済学が、国連のために使われることを最初は、気持ちよく思っていなかったのだと思います。ケインズは、おそらく自分の経済学は資本主義・社会主義から批判されると思ったのでしょう。
しかしケインズ経済学の考え方は、今でも多くの国で生きているのです。
『ガルブレイス』の感想
ガルブレイスの第一章では、彼は価格皇帝見習と呼ばれていました。ガルブレイスが、ハーヴァード大学に就任した当時は、ハーヴァード大学での、経済学者の権威がフランクリン・ウィリアム・タウシッグと言う人であった。彼はガルブレイスのことを晩年にこう言った。「堂々たる風采と貴族的な態度の持ち主である」と言っていた。ガルブレイスの経済学は彼が掲げた『ゆたかな社会」と言う本を出していたが、1930年代に、なると「戦闘的ケインジアン」と知られるようになっていたが、彼の考え方は「異端」と分類をされていたのである。それはこれまでの経済学者は、市場価格を、自動調整機能があった。これは「市場価格」と言うのは、自動的に、決まるものであると言うものであった。しかし、彼は市場価格と言うのは自動的に決まらないことを証明していたのでした。
しかしガルブレイスの考え方は、アメリカの風潮の壁をつくってしまった部分もあったのです。
『経済史の理論』の感想
経済史の中には「数量経済史」と言う考え方があるが、この「数量経済史」は自己の問題を、純粋に数量にして、把握しようとしていないようである。この数量経済史は、遡ればのぼるほど、過去の経済的側面が、今日ほどには他の諸側面から分化していないと言うことを、われわれは認めざるを得ないのである。
マルクスは、自己の経済学から一般性をもつ理論を抽出し、それを歴史に適用した。われわれが必要とする非市場組織は、以下の議論をし、それをわかりやすくするためには、不完全でなければならない。それは不完全性が、どこに存在していなければならないのか、また不完全性がどこに存在していなけば、ならないのかである。
産業革命では、固定資本すなわち「機械」を導入したことで、生産費が低下した。このことから大量生産が可能になったのである。
この本書が何を言いたかったか、それは経済にも歴史はあるのだと言うことである。
『社会科学における人間』の感想
この本の著者は、この「社会科学における人間」と言う本を書くにあたり、「マルクス経済学における人間」と言う論文を書くように、依頼された。この論文の内容は、経済学に人間の考え方に、問題があるという考えかたに、賛成する人はあまりいなかった。このことから戦後当時は、日本経済もガタガタであったといえた。その後日本は、高度経済成長につれて、大学の受験戦争・オイルショックがあった。大学の受験戦争は、大学に行く人がかなりいた。マルクスは「自然発生的分業」について述べている。これは職業分化にあたるようなことだ。「資本主義の精神」と言うのは、現実には相互が引っ張り合うがために、ついには一つにはなりえないと言うことである。ドイツのヴェーバーは、これについて「世俗内的禁欲」と名づけることにした。そしてこれが「プロテスタンティズムの倫理」になったのである。「プロテスタンティズム」と言う語は、「禁欲プロテスタンティズム」と言われている。これはプロテスタントの諸派である。
この本は、全体を通して宗教の違いや色々なことが違うこともわかった。
『ユートピア』の感想
私はこのユートピアの本を読んで、第一巻にはラファエル・ヒスロデイさんについて述べていた。先哲のプラトンのような人で、アメリゴの最後の航海には、一緒に帰国をせずに最後の航海を行なった地で、もう思い残すことがないと自分で思ったのだろう。彼にとってのユートピア(理想郷)は、アメリゴと一緒に行った航海で、自分がここに骨を埋めることができると言う事なのだろう。つまり彼の考えていたユートピア(理想郷)は天国であると言う事であったのだろう。第二巻の第1章には、ユートピア島での生活を描いている。ユートピア島での生活は、最初は分からないことが多くて、慣れて行こうという努力があった。第二巻の第四章では、ユートピア島に住む人々の、知識・技術および職業についてで、ユートピア島には、農業のほかに、毛織業・亜麻織業・石工職・鍛冶職・大工職といったところであった。この中でとりたてていうほどの、職業はなかった。つまり職業に平等性があったのである。第7章の奴隷・病人・結婚・その他についての内容で、外国から来た人は、奴隷にしてはならないと言うことが書かれていた。このことからユートピアの人は、他人の自由を奪うことを嫌っていたことを示している。この本を読んで思ったことは、ユートピアと言うのは、存在するがそれは天国にあるのであって、実際には存在しないのが答えであった。
『古代への情熱』の感想
この本の著者である。ハインリヒ・シュ−リマンは、幼少で最初の、8ヵ年はドイツの小村で過ごしていた。この時から、トロヤやミケネの墳墓を発掘することの夢を見るようになったのである。しかし、幼少の彼にはお金が無かったのである。この当時彼は、自分の父に対して「なぜ銀の皿や金のゆりかごを掘り出して、お金持ちになりたいの?」と言っていた。おそらく彼は、この時「いつか父のようになろう」と思ったのだろう。そして彼は、その後働きながら勉強をして行き、英語・フランス語を1842年に取得した。最初彼は、英語・フランス語は嫌がっていたが、やっていくうちに面白くなっていったのである。そして彼は、オランダ語・スペイン語・イタリア語など14ヵ国語を習得したのである。習得したのである。そして彼は、その間にも色々働いてお金を儲けていた。彼は必死で働けば、貧しい暮らしから解放されると言うのは、見通していたが、自分の暮らしは楽にならなかったのも、現実である。トロヤの発掘と言う夢は人生の秋になってかなったのである。そのトロヤで発掘を続けているうちに色々なものが、出土したのである。その後、黄金の杯・蓋のある壷などが出土したのである。そして彼は、晩年そのお金で旅行をしたのである。主にエジプト・クレタに行ったのである。彼はその後も発掘を続けた。彼は色々な手段で稼いでいたのもわかった。
『ヒトの見方』の感想
ヒトの見方と言うのは、外見だけで決まらないものが確かである。ヒトは考えていることも違えば、持ってい能力も違うのである。動物は、みんな一緒の顔であるがなぜ人間だけが、全員違う顔をしているのかである。ヨーロッパに住んでいる人の、顔たちは鼻が高い人がかつてはほとんどである。しかし今は、ヨーロッパでも肌の黒い人や黄色の人もいる。実際に動物の進化は学者がどのように進化したのか仮定を立てているのである。J・Dスミスは、一九七六年にヒヨケザルからコウモリへの移行を、具体的な図で示した。当然ヒヨケザルから、コウモリに進化したと言う説を、否定する学者もいるのである。人類学によるとヒトは直立することによってヒトとなった。コウモリは倒立することでコウモリになったのである。人間や動物は、心臓と言う器官をとると死ぬ。心臓は人間や動物にとっては、非常に大切な器官である。これは脳も同じである。人間は長い時が経てば死ぬが、動物は、短い期間で死ぬ種類もあるがキリンのように長い時を生きる動物もいる。しかしキリンも時が来ると、死ぬのである。だから生物は死と言う運命から逃れることは出来ない。その間にも、生物は進化を続けてきたのである。馬でも六千万年かかって顔が長くなったのである。ヒトの見方と言うのは、人それぞれによって違うのである。
『留岡幸助と備中高梁』の感想
新島襄といえば、徳川幕府の鎖国政策が取られていた時代に国禁を犯して米国に渡り、そこで高等学校、大学及び神学校を卒業した。その後明治7年に文明開化の政策にも貢献した人物である。しかしそこに至るまでに、かなりの苦労があった。江戸時代当時は、鎖国政策があった時代に国禁を犯すと言うのは、当時としては、死刑に値する行為でもあった。新島襄は下級武士の子として、1843年(天保14年)の旧暦1月14日に生まれた。13歳のときオランダ語を勉強するのだが、オランダ語の先生は、幕府の命令によって一年足らずで長崎に戻った。その後16歳のときに、暇を盗んでオランダ語の勉強を続けた。彼は、操練所に17歳から19歳までの3年近い期間勉強をした。そして、そこで外国船の優秀さを知り、その技術を取得するべく外国に行き、勉強をすることした。そして彼は蘭学の先生から、これからはオランダ語ではなく、英語の学習が必要である事を聞き、英語を学ぼうと考える。文久4年(1864年)1月22歳になった新島は、駿河台の友人宅に寄宿し、そこで英語の勉強をした。備中松山藩士と運命的な再会を果たす。そして「日本脱出作戦」を立てたのである。そしてこれが後に留岡幸助・福西志計子と言った人物と交友関係を結ぶことになる。そしてこの考えが近代への道を開く事になるのである。
『福西志計子と順正女学校』の感想
福西志計子の家は、藩主、板倉勝静のに従って伊勢亀山から、備中松山に移住した譜代の藩士であった。御前丁に住み、隣に山田方谷が居た。志計子が7歳の時父は死去したが、その悲しみなかで、志計子の母は「自分が家を、支えていかなければならない」と思い、志計子に山田方谷の門をたたくことを勧めた。そして彼女は、高梁小学校裁縫所の教員となった。キリスト教の伝道を聞き、これに感動し、キリスト教の信徒になり、信仰活動を続けてきた。しかし当時の日本はキリシタンは禁止されていたため彼女は、町議会からは非難をされ、明治14年7月には、教員の職を辞めた。しかし彼女はこの逆境を跳ね返し、同年12月には自宅で私立裁縫所を立ち上げた。そして、これが後の順正女学校になり、最終的には今の順正短期大学になった行ったのである。その際考案を、山田方谷の、高弟の高梁小学校で、校長をやっていた吉田寛治先生に依頼した。そして吉田先生は、漢籍から「順正」を考案したのである。「順正女学校」の初期(明治30年ごろまで)の教員構成は、裁縫科は5人で、文学科は10人であった。そして発足時には、教員は13人でスタートしたのである。そしてそれは次第に、大きくなっていたのである。そして彼女は、キリスト教を広める活動は死ぬまで続けていたのである。
『貧困の克服』の感想
貧困を克服するためには、教育が必要である。教育をさせることによって、経済発展に拍車がかかるからである。未来を創るためには、過去を知ることが大切である。過去を知ることにより、過去に犯した失敗を、教訓として出来るのである。例えば、ノーベルでも過去に「ニトログリセリン」と言うダイナマイトの原料を創ったのである。しかしこれは危険すぎるため扱いは、難しかった。それは少し揺らしただけで爆発をしてしまうと言う代物であった。それが原因でノーベルは弟を失った。そしてこのことを、教訓にダイナマイトと言うものが、生まれたのである。さらに貧困を克服するためには、制度が必要である。例えば学校の教育制度もその中の一つである。日本と言う国は、明治維新当時は近代的な工業や経済発展は、ヨーロッパに緒をひかれている状態であった。それにもかかわらず、日本は識字能力の水準は、ヨーロッパを越えていたのである。日本全国の、市町村予算の43%が教育費に当てられていたのである。さらに書籍出版に関しては、もうすでに世界一になっていたのである。さらに基礎教育、医療などのかたちをとる人間的発展は、工業や経済の発展に、拍車をかけることに繋がる。しかし経済の発展は、いつまでも伸びるわけではないのである。これは「自分に事故なんか降りかからない」と思っていることと同じで、経済も時期が来れば停滞してくるのである。