吉川八幡宮
716-1241 吉備中央町吉川字東苅尾3932
解体前の吉川八幡宮
国指定重要文化財の本殿は、後方の建物です。(写真は解体前の姿です)

吉川八幡宮の概要

 吉川八幡宮のある場所は、吉川の分水嶺にあたり、古代より神のいらっしゃる神聖な土地と考えられ、最も重要な場所として我々の祖先は斎場(いつきば)を造り、地主神を祭っていました。(これは、現在、當番祭の仮屋として型を残している)
 つまり、最初はヒモロギ形式を祭る古式の神社型式でしたが、約1,100年前、嵯峨天皇の弘仁年間に社殿を創建し、神像を納め奉りました。その後、醍醐天皇の延喜年間に地主神を八幡宮として称え奉りました。
 社伝によると、この八幡宮は天安元年(859年)の創建で、初めは現在地より南に約4キロの黒山地区に松原八幡宮として鎮座していたが、平安時代中期の永長元年(1096年)に現在の地に遷(うつ)され、吉川八幡宮となったとあります。
 吉川八幡宮は、平安時代後期、備中唯一の京都・石清水八幡宮の別宮として多くの崇敬(すうけい)を集めました。
 鎌倉時代に一時衰退していましたが、室町時代の応永2年(1395年)に社殿が再建され、神宮寺の神護寺も設けて復興しました。
 祭神は仲哀天皇・神宮皇后・応神天皇の三神で、相殿に猿田彦命と楽々森彦命を祀(まつ)っています。なお、楽々森彦命(ささもりひこのみこと)は、古代吉川の豪族であると伝えられています。

 吉川八幡宮で毎年10月に行われる當番祭(とうばんさい)は、約1か月に及ぶ祭りで、大祭の日には多くの人でにぎわいます。この當番祭は、岡山県指定の重要無形民俗文化財です。また、八幡宮を取り巻く社叢(しゃそう)は岡山県の郷土記念物に指定され、建物では本殿が国、随身門(ずいじんもん)が岡山県、拝殿が吉備中央町重要文化財に指定されています。

  吉川八幡宮は、うっそうとした社叢(しゃそう)の中に鎮座しています。鳥居をくぐれば、前方に随身門があります。鳥居は元禄4年の建造、随身門は桃山時代末期の遺構を残しています。門をくぐると、拝殿と本殿がT字型の配置で、相接して建っています。本殿は室町後期の様式で、切り妻造妻入の拝殿は江戸時代末期の建造です。本殿は幣殿を兼ね、渡廊で社務所とつながっています。社務所は慶長9年木下肥後守が寄進し、渡廊は寛永18年木下淡路守が寄進したものです。しかし、社務所は明治30年代全部改造されたうえ、昭和28年火災で全焼、現存の建物は昭和29年に再建されたものです。渡廊は、社務所火災の時一部を焼失しましたが、今なお江戸時代の旧態を残しています。
 また、本殿の東北には、稲荷社(江戸末期)、若宮社(江戸初期)、大山祇社(明治)など見世棚造の末社が前後に並んでいます。
 八幡宮の西南300メートルの地点にかつて神宮寺であった神護寺(じんごじ)があります。神宮寺としては、もと、金福坊、福仙坊、長福坊、井上坊、千蔵坊などの諸坊がありましたが、ほとんど退転したので、応永2年僧宗光・道光がこれを復活して新たに神護寺を建立しました。

吉川八幡宮本殿の概要

吉川八幡宮本殿

 本殿は、応永2年(1395年)今から約600年前に再建された建物で、正面5間、側面3間の大型平面です。屋根は全国的にも珍しい入母屋造平入の正面全長に庇( ひさし)が取り付く形式で造られています。本殿の内部は、内陣と幣殿を合わせた様式で、幣殿は内廊を兼ね、外廊は本殿全体を囲んでいます。
 勾配(こうばい)の急な屋根と、指肘木による腰組の縁、厚板を用いた竪板張りの壁、割板を用いた床組・小屋組材の豪放な木肌は、道具の発達した現代では考えられないほどの手間と時間をかけた造営であり、重厚かつ繊細な加工は見る者を惹(ひ)きつけずにはおきません。
 なお、解体前の本殿の屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)でしたが、そうなったのは明治時代以降で、それ以前は栃葺き(とちぶき)だったそうです。
 なお、平成の大修理で創建当時の栃葺き屋根の姿がよみがえりました。


本殿建立後の修理などについて
(文献などから判明しているもののみ)

正徳年間(1711〜1715年)・・・屋根裏、垂木などを取り替える。正面扉廻りと庇(ひさし)を改造する。
明治45年・・・屋根の葺き替え修理を行い、檜皮葺きに改める。
昭和29年12月〜昭和30年3月・・・屋根を葺き替える。部分修理を行い、化粧垂木や縁廻り材の大部分と軸支輪の一部を取り替える。


平成の大修理
 本殿の保存修理は、長い年月による腐朽や緩みなどの破損が著しいため平成7年(1995年)11月に着手されました。当初は、本殿の屋根の葺き替え及び部分修理工事を予定していましたが、その後の調査で予想以上に痛みが激しいことが判明し、文化庁の指導を受け、全面解体に方針が変更されました。保存修理工事は、貴重な古材が風雨にさらされないよう覆い屋を建てることから始め、工事が安全にかつ、順調に進められるよう足場や境界柵などの仮設物の建設を完了し、解体に取り掛かりました。すべての材料を一つ一つ丁寧に調べながら作業をしているため、解体が終わるのは平成8年(1996年)の12 月になります。解体終了後は、痛んだ材料を繕(つくろ)い、または取り替えて、元どおりに組み立てていきます。すべての工事が完了するのは、平成10年(1998年)夏の予定です。

NEW「打割法」の部材発見(室町初期)、のみ使い木材を縦に切断
 室町時代初期(14世紀)、のみを使って木材を縦に切断していたことを物語る部材が吉川八幡宮本殿の解体修理の過程で、本殿祭壇下の床板を支える木として使われているのが発見されました。人目に付かない場所のため加工せず使用したのではないかと思われ、「縦にひくのこぎりが使用される以前の建築技術を知る上で貴重な発見」と関係者は注目しています。
部材は松で、長さ2.4メートル、幅18センチ、厚さ11センチ。のみの跡は、加工された表面と裏面、側面で見えます。表・裏面は、のみの跡が幅2.4センチで「ミ」の字状に打たれ、中央部を「縦断」しています。さらに側面は、同じのみを使ったと思われる深さ4センチの打ち込みの跡が鮮やかに残っています。
 木材の製材方法の中で、のこを使って縦に木を切るようになったのは木鋸が使われだす15世紀からで、それ以前は中世の絵巻物などに登場する、のみを使って縦に割るという「打割法」でした。この方法で製材した部材はちょうななどで加工されるため形跡が残らず、これまで、材料から「打割法」を直接裏付ける資料は確認されていませんでした。
・このページは、田中一雄著「吉川誌」(昭和31年刊)、広報「かよう」をもとに作成しました。

「吉川八幡宮に伝わる伝承」
  伝説「開けずの箱」     宗光と道光の話  

吉川HP