吉川(よしかわ)の歴史

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        人々の暮らしの始まり

      縄文時代の生活跡は、現在までに吉備中央町賀陽地区内では発見
      されていません。
      獣(けもの)を追い、木の実や草木を採取し移動して暮らす当時の遺物
      は、後の時代の定住期に比べ、発見されにくいのが現状です。確たる
      調査資料はありませんが、飲料水もあちこちに湧き出て植物や小動物
      など自然に恵まれていた大昔の吉備高原には必ず豊かな人々の暮らし
      があったはずです。
      水稲栽培が始まる時代になると、水田の開墾と人々の定住が始まるよう
      になりました。その名残を示して、今から2,000年ほど前に使用された石
      包丁や石斧(おの)などが発見されています。土器や弥生遺構なども町
      内各所で確認されており、高原部に位置しながら地味も肥え水利にも恵
      まれた吉備中央町賀陽地区には、はやくから稲作文化が栄えていた
      ようです。


      賀陽のあけぼの

      奈良時代の史書「続日本紀」には、律令制下の行政組織として「賀夜
      (かや)郡」の名がみえ、旧:賀陽町域も属していたことがわかっています。
      平安時代に出た我が国最初の百科辞典「和名抄」には、賀夜郡多気郷
      の名が記されており、多気郷田次里、物部里、吉川里が、旧:賀陽町域
      に相当します。鎌倉時代に、この賀夜郡から北部三郷の多気郷、巨瀬郷、
      有漢郷が分離し、上方郡(上房郡)が生まれました。

           ・巨瀬郷 ・・・ 現在の高梁市巨瀬(こせ)町付近
           ・有漢郷 ・・・ 現在の高梁市有漢(うかん)町付近



        「多気郷(たけのごう)」について

      吉川は古代多気郷に属していました。多気郷のことは奈良正倉院文書
      天平11年のところに見えています。もとは、多気部郷でしたが、奈良時
      代に整理省略して多気郷というようになりました。多気郷の地は、旧:
      上房郡上竹荘村・豊野村・下竹荘村・吉川村(以上、加賀郡吉備中央町
      賀陽地区)、旧・吉備(賀陽)郡菅谷村(現・吉備中央町竹部、上野)の
      5村を含んでいました。
      この名称は、古代日本史の伝説上の英雄・日本武尊(やまとたけるの
      みこと)の御名代地の「たけるべ」からきたものと思われます。「たけるべ」
      は健部、建部、武部、竹部、多気部などと書かれていますが、なまって
      「たけべ」、または略して「たけ」となっています。岡山県には「たけるべ」
      にちなむ地名が残っています。例えば、御津郡建部町の建部、加賀郡
      吉備中央町(旧:御津郡加茂川町)の竹部、○○市(旧:浅口郡金光町)
      の上竹、下竹、加賀郡吉備中央町(旧:上房郡賀陽町)の上竹(荘)、
      竹荘、下竹荘(黒土・田土・湯山の総称)です。また、今は地名がありま
      せんが、総社市山手(旧:都窪郡山手村)と真庭市湯原(旧:真庭郡湯
      原町)二川地区には、かつて「健部」の郷名があったそうです。
       (古書に見られる多気郷)
       和名抄に「賀夜郡多気郷」とあり、総解文集に「上方郡多気」とあり、
       国郡志に「多気郷」とあり


        「多気荘(たけのしょう)」の起こり

      平安時代の中頃より、律令制の崩壊とともに土地の私有化が始まり、
      各地に荘園が形成されるようになりました。この地一帯も、時の豪族に
      より早くから荘園化が進みました。
      吉川里は、平安時代、京都の石清水八幡宮の荘園となっています。
      これは吉川の豪族が権力を得るために石清水八幡宮に私有の土地を
      寄進したためです。多気郷の地にも、吉川里の他に、田次里、物部里
      などがありましたが、いずれも荘園化され、これが一本となって多気荘
      と呼ばれるようになりました。養和元年(1181年)の新熊神社文書「東鑑」
      には、「新熊野神社領28か所の1つ多気荘」の記載が見られます。この
      多気荘が、後世いつの頃からか竹荘と書かれるようになったのです。
      当時、吉川は「吉川保」と呼ばれていました。またこの頃、吉川八幡宮
      が、備中唯一の石清水八幡宮の別宮となりました。石清水八幡宮は、
      全国に40余りの別宮と300余りの宮寺を持ち、その数においては、はる
      かに全国の諸大社を圧倒していました。


        動乱の時代

      室町時代末期にはいると、賀陽町は備中松山城(高梁市)と備前虎倉城
      (御津郡御津町)の両勢力の接点となり、以後戦国時代にかけて、戦乱
      が相次ぎます。当地を、尼子、荘、秋庭、三村、伊賀、毛利、浮田の各
      勢力が去来し、支配勢力への当地の帰属は目まぐるしく変わりました。
      とりわけ、竹荘盆地をめぐっての争奪戦は数多く、町内には激戦を物語
      る古戦場がいくつも残っています。


        近世以降

      豊臣秀吉の天下統一後、町域は松山藩、足守藩、一橋藩、亀山藩など
      の所領に細かく分割統治されました。
      吉川は8つの村に分かれていましたが、天和年間に、千木村、正行村、
      河内田村、藤田村を合わせて東吉川村とし、宮尾村、西庄田村、小茂田
      村、布郡村を合わせて西吉川村としました。
      明治維新を迎え、明治7年になって1村に合併、吉川村となりました。
      さらに明治22年、黒山村を編入しました。

      そして、昭和30年、上房郡吉川村、上竹荘村、豊野村、下竹荘村、吉備
      郡大和村の5村が合併して、上房郡賀陽(かよう)町が誕生しました。
      名称の由来は、古代この地域を賀陽(かや)氏が治めていたことによる
      ものです。
      平成の大合併に伴い賀陽(かよう)の地名はなくなりますが、今後は、
      道の駅かよう、岡山自動車道・賀陽IC、ロマン高原かよう総合会館、
      などに、その名を残すことになりそうです。

      平成16年10月1日、上房郡賀陽町は御津郡加茂川町と対等合併し、
      加賀(かが)郡吉備中央町になりました。

       旧吉川村・・・・・吉備中央町吉川、黒山
       旧上竹荘村・・・吉備中央町上竹、納地
       旧豊野村・・・・・吉備中央町豊野、竹荘
       旧下竹荘村・・・吉備中央町黒土、田土、湯山
       旧大和村・・・・・吉備中央町北、岨谷、西、宮地

(使用文献)「吉川誌」田中一雄著、「'95ロマン高原賀陽」、「'92町勢要覧・賀陽」


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