■お寺の始まり
本寺は、日蓮聖人に帰依(信者)された鎌倉の武士伊達弾正朝義公が当地に地頭として赴任し、弘安4年(1281)にその館の北東の丘に創建されたことに始まります。

日蓮聖人はお釈迦様の最高の教えは法華経にある事を就きとめられ、その事を世の中の人々に弘める為、布教に励んでおられました。その当時の鎌倉では念仏、律等の他宗団の教えが弘まっており、時の鎌倉幕府の執権北条氏は日蓮聖人の活動を不満に思っていました。

北条氏は日蓮聖人の処刑を企て、文永8年(1271)9月12日、竜ノ口の刑場に連行します。大勢の警護の侍を従えた中での処刑でありながら、まさに「いざっ!」という時、不思議な事に振り上げた刀に落雷が起こり、日蓮聖人の首をはねる事が出来ませんでした。(竜ノ口法難)

そもそも、伊達朝義公は奥州の出身で、執権北条氏の家来でもありました。日蓮聖人のこの竜ノ口での法難の時も警護の役人としてその職務に当たっていました。しかしながら竜ノ口での出来事を目の当りにし、一変、日蓮聖人の信者となったのです。妙本寺の伝記には「その夜の奇瑞を見奉り、信伏随従して、わが祖の檀越となり。」とあります。熱心な信者となった伊達公は当地に配置替えを命ぜられ日蓮聖人から遠ざけられてしまいます。しかし日蓮聖人への思いが断ち切れず、是非、日蓮聖人が心安く法華経を広められる場所を建立したいとの思いから創建されたお寺が現在の妙本寺なのです。
■・・・その後の妙本寺
達公は弘安3年9月、日蓮聖人へ是非来ていただきたく身延山に赴きます。しかしながら当時、山梨は身延山に身を寄せていた日蓮聖人は、「身延隠棲は訳あっての事」と断られます。変わりに12歳だった経一丸(後の日像上人)を遣わすお約束を交わし、大曼荼羅ご本尊を一幅と、山号寺号を賜ります。当山の山号の「具足山」、寺号の「妙本寺」は宗祖日蓮聖人から賜った名前です。
 
永仁元年(1293)、24歳になった日像上人は帝都弘通の依命を果すべく京都に赴きます。その事を耳にした伊達公は、すぐさま京都に使いを出し岡山へのご下向を願います。しかし、日像上人もまた京都の布教活動から手が引けず、延期の旨を仰せつかり大曼荼羅ご本尊を一幅と、三十番神を賜っています。

正和(1312)の時代になり、その名代として大覚大僧正が初めて当山を訪れます。妙本寺建立以来、約30年ようやく伊達公の念願が叶った時、残念な事に伊達朝義公は亡くなっていました。徳治元年(1306)66歳でした。

長年、宗祖日蓮聖人を想い、法華経に帰依してこられた伊達公は当山建立から約20年の歳月を費やし、近隣寺院全てを改宗し、700年過ぎた現在でも「野山法華」と称され当村全戸は日蓮宗の流れを汲んでいます。後に、大覚大僧正は当山を拠点に西国布教に力を注ぎました。


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