緑ゆたか 落ち着いた山里
 
 春は山桜  初夏にはホタル
  
  山田方谷ゆかりの史跡が残る里

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史跡等位置図
 方谷園 方谷駅 見返りの榎 方谷 生家址 長瀬塾址 定光寺    

   1908年(明治41年)上房郡の教育会が方谷先生の遺徳をたたえ、その霊を慰め、遺徳を後世に顕彰し、後の人々の模範としようと計画、先生の墓所の前に庭園を築くことになりました。津山の築庭師岡島亀吉氏のもと1910年(明治43年)3月31日から工事にかかり5月31日に完成させました。その概要は、
   
      面 積  約2000坪     植 樹 1300本余    庭 石 350余     経 費 1860円余    
      延人夫 1500人       亭 舎 7 棟


 当時の亭舎は7棟ありましたが、当時の建物で残っているのは「倚松庵」を含め2棟のみとなっています。なお、現在のこの園は地元の強い要望により、平成24年4月1日より市の公園となりました。
     方 谷 園  
 
   
    
 左の写真は、方谷園入り口の碑文で犬養 毅代議士が揮毫されたのもであり、開園式当日訪れています。
 右の写真は、開園当時七棟あった亭舎の一つで「倚松庵」である。この倚松庵はかつて「蔵屋」(山田方谷の生家址近く)にあった地蔵堂である。これをお堂ではなく普通の亭として移築したものです。
 
 

 
下の写真左は「風神亭」、右は「霽月亭」で平成六年に復元したのもです。当時は、原泉亭、無息亭、愛日亭、光風亭・・・とあったそうです。
 
 
           
          
 
  
     

         方谷園記碑

 この碑は、1910年(明治43年)先生の一番弟子である三島中洲が撰文したもので、内容はこの園の作庭理由、方谷先生の人となり、功績、お考え等を漢文で記したものです。

≪要約≫
 方谷山田先生の墓は、備中上房郡中井村西方にあり、各地より先生の学徳を景慕してお墓参りする人が後を絶たない。そこで、上房郡町の働きかけにより、先生の墓前に泉石を布置し、花木を植えて参墓者の休憩所とし、方谷園と命名する。
 先生は幼くして聡明、学問、書道に秀でてられ神童と称されました。学問の志を問われたとき、「国を治め、天下を平和にするためだ。」答えられた。45歳のときに松山藩主板倉勝静に仕えて執政となられ、藩の財政を改革、文武を盛んにし、士民の生活を豊かにされた。その後老中となった板倉公を補佐して幕府に仕える。韓国の違約に対して、「即刻韓国を征伐し、二三の隣国を合併しなければ、欧米と対等になることは難しい」と進言されたが、これらの進言は採用されず、幕府は外国に対して開港を許可した。
 先生は、老後、松山藩のために計画したことは全て実行されたが、天下国家の政策は、一つも行われなかったと歎いておられた。明治維新後、日清・日露戦争を戦い、台湾、樺太を領地とし、勧告を属国として、南満州を租借した。このことによって先生が画策されていた「天下を平和にして欧米と対等になる。」という志が幕府においてでなく朝廷において実現したのである。このことは、先生もあの世で喜んでおられることでしょう。
 先生は、王陽明を師とされていた。陽明学は志を立てることを以て学問の根本としている。先生は幼くして志を立てられたので立派な学者になられたのである。先生を景慕する我々は、まず志を立てなければならない。
 
      
   
 
 左の碑は方谷先生生誕200年祭挙行のおり、方谷先生の著書「理財論」の中の言葉を引用した、
   「義を明らかににして  理を計らず」(左)
   「事の外に立ちて  事の内に屈せず」(右)

                            の石碑
 
     
  山田家の墓所  
      
 左は、山田方谷先生のお墓です。先生は、家人に命じて枕上を酒掃させ、香をたかせ、枕元に勝静から賜った短刀「備前介宗次」、矢吹久次郎から送られたピストル、「王陽明全集」を置かせ小阪部塾において1877年(明治10年)6月26日、73才の波乱の生涯の幕を静かに閉じました。
 6月28日には松山川を船で下り遺骸を長瀬塾に迎え、翌日29日西方の向山の墓地に移され、千余人の会葬者に見送られて葬られました。
 墓碑銘「方谷山田先生墓」の文字は板倉勝静の書です。 
 
   

 左のお墓は、方谷先生の3人目の妻 みどりさんのもので方谷先生のお墓と向かい合っています。 
   
 

 右の写真の右側のお墓が父五郎吉さんのものです。
 左は、先妣墓碑で先生が63才のときに作られたお母さんの墓碑です。
 先妣墓碑は全て漢文で、方谷先生の文です。

       

       先妣墓碑(撫髪之訓の碑
)  
 「山田家は、今は落ちぶれているが、元武士の出であり、家を再興するのが父の念願である。丸川松隠について学ばせているのもこのためである。」といつも教えられていました。ある日、母が私の頭を撫でながら、「この子はきっと父上の志を果たしてくれますよ。」と言われておりました。 
 私はこの言葉を肝に命じて大きくなり、学問に励み、今日のように藩に仕える儒学者となり、藩の政治に参画するようになりました。
 あのときの『撫髪之訓』に今わずかにお応えできたのでこの碑を立てます。
   
 
 
 ★方谷園は紅葉も綺麗です。