長 瀬 塾 址
 
 
 この辺りはもともと誰も住んでいない土地だったが、1859年にこの地に移住することになりました。
 この地は、地形上松山藩の北端にあたり、「荷出」という高瀬舟往来の重要な場所を控え、対岸の中腹にあたる小道は新見と松山をつなぐ重要路で防備上からも大切なところであり、また、方谷先生生誕の地西方に近いということもあって移住を決めたと思われます。
 なお、この年7月越後藩士 河井継之助 が来訪し、翌年3月まで先生に師事しています。そして、10年後の1868年(明治元年)ここで家塾(長瀬塾)を開きました。すると、次から次へと入塾,たちまち塾舎は満員、いつも塾生であふれました。
 この塾では、主に漢字と書道等を教え、入門者は備前、備中、備後、美作、伯耆、播磨等の国々から高梁市史によれば延べ200人が学んだとなっています。先生は「後進を教育して、国家、他日のために役立つ者を養成したい」という信念でこの塾を開設されました。
 その後、1870年に母親の出所である小阪部へと移って行かれました。先生の去った後、長瀬塾は嗣子耕蔵に受け継がれました。
 しかし、1881年(明治14年)耕蔵が亡くなると塾も閉鎖、女性ばかりとなった遺族は、翌1887年郷里西方の先生生誕の地へと移住されました。
 その後、1886年に大洪水のために跡形も無くなり、さらに、1928年国鉄伯備線の開通時、古跡は土砂に覆われてしまいましたが、長瀬塾のあった場所が現在の「JR伯備線方谷駅」あたりであることはご存知のとおりです。また、1920年先生ゆかりの人たちが、この塾跡がなくなることを恐れ、屋敷跡に石碑を建立、鉄道開通時に宅地の前面の新道に面した場所に移されましたが、1934年(昭和9年)の大水害で流失してしまったので、1940年(昭和15年)駅の上方に移し現在に至っています。



 
       

緑ゆたか 落ち着いた山里
 
 春は山桜  初夏にはホタル
  
  山田方谷ゆかりの史跡が残る里

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