山田方谷生家址・山田家旧宅址 
生 家 址    旧 宅 址
      

  1805年2月21日山田方谷はこの地で産声をあげました。父は山田五郎吉重美(山田家26代)、母は梶、身分は百姓(村方三役の長百姓)で菜種油の製造販売で生計をたてていましたが、家計は苦しくとも元は武士である、という強い気概を持って日々の生活を送っていました。
  幼名は、「阿璘」、本名は「球」、通称「安五郎」、小さい頃両親は、呼びやすいように「おりん」と呼んでいたようです。先生の兄弟は妹「美知」(先生が8才のときに死亡)、弟「平人槌平」の三人。きびしい家訓の下、3才の頃より読み書きを両親が厳しく教えたわけは、山田家を再興したいととの強い志があったからであり、先生は常に頭に置いて勉学に励み、両親の要望に答えようと努力を惜しまず、その能力を遺憾なく発揮したのです。
  5才になると父親に手を引かれ新見往来を歩いて新見へ、母方の伯母が嫁いでいる「安養寺」を宿坊にして新見藩儒丸川松隠の門下生となり、師が驚くほどの才能を見せるのです。しかし、14才の時母を、15才の時に父を続けざまに亡くしたことが苦労の始まり、一時家業を父親の弟辰蔵さんに継いでもらったが、病弱でその任に耐えず、結局16才の先生が新見での勉学をあきらめ帰郷、家業を継ぐことになりました。
  右も左も分からない少年は周りの大人たちにもまれながら、一生懸命仕事に励み、勉学もおろそかにすることなく努力したかいあって、21才の時6代藩主板倉勝職に認められ、藩校「有終館」の出入りを許され、二人扶持(玄米一日一升)を賜ることとなりました。23才からは京都、江戸への遊学と、この地に落ち着くことがなくなりましたが、25才の時に苗字帯刀を許され八人扶持を賜り中小姓役となり、念願の「武士」に戻ることができたのです。
  そのような先生の不在が続く中、新見藩若原家から嫁いで(先生17才の時)いた妻「進」さんは、懸命に家を守っていましたが娘「瑳奇」が若くして亡くなったこともあり精神的な病を患ったこともあって先生43才の時仕方なく離婚というという形を採らざるを得ませんでした。誠に以て家庭的に恵まれているとはいえません。
  時は移って1882年前年耕蔵さんが亡くなると妻の早苗さんたち女性ばかりとなり長瀬より母屋と表門を解体し、大松、入江の人々の手を借りここに移築するとともに移住されました。
  その後、三谷家の所有となり母屋は改築され、表門も三谷さんの要請で、30数年前に、熊本金太郎さんの手により改築され現在に至っています。
  
 
  三谷家の裏手、小道を挟んで両脇に高さ2~3mの石垣が築かれ、その上に約2000平方メートルの平地がありますが、ここが山田家の祖先の住んでいた屋敷跡です。

  山田家20代の重記が1600年の関ヶ原の戦いに西軍についていたこともあり、野に下ってこの地に移り住んだのです。この広大な土地からみても、屋号も「蔵屋」と称していましたが、24代宗左衛門益昌の代に不祥事が発生、山田家は家財没収のうえ所払いとなり4歳の官次郞、母、祖母の3名は、土橋の蓮台寺に身を寄せ、肩身の狭い生活を強いられましたが、19年後やっと許されて西方に帰ってくることができたのです。

緑ゆたか 落ち着いた山里
 
 春は山桜  初夏にはホタル
  
  山田方谷ゆかりの史跡が残る里

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